私の地元、広島県呉市。
先日の西日本豪雨で大きな被害を受けました。
今は遠くに住んでいて、ボランティアに参加したり直接的な援助できないのが悔しいけれど、とっても微力ながら何かこのブログできないかと考えて思いついたのがこれ!
呉市の観光名所を英語で紹介しよう!
というのも私、今年1月
呉市の観光案内看板の英訳のお仕事をしました。
呉市が日本遺産に登録されたのを機に、看板もきれいで英語の説明付きのものに変えよう!ということで、私に依頼がきました。
その時の翻訳の過程などを説明したいと思います。
呉市は海も山もあってとても良い所なので、復興したら是非足を運んでください!
翻訳に役立ったもの
①英和活用辞書
この辞書、すごく便利です。
英和活用辞典は、単語がどんな組み合わせで使われるのか調べることができます。
単語の意味が分かっていても、ネイティブ・スピーカーが使わない組み合わせにしてしまっては自然な英語にはなりません。
例えば"aptitude"という名詞を調べてみます。
aptitudeはどんな動詞と組み合わせて使われるのかが、一覧で例文も交えて表示されます。(私が使用している電子辞書casio XC-A10000には内蔵されています)
②Google検索
以前紹介しましたが、「こんな表現するのかな?」と思ったら、googleで検索です。
ポイントは、 "~~~" というふうに、調べたい表現を" "で挟んで検索します。
例:learn something newという表現を調べてみます。
" "に挟んで検索します
⇩
19,200,000件もヒットしました。ってことは「よく使われる表現だなー。採用!」となるわけです。
③Google 画像検索
これもよく使います。
例えば「昭和期に入って高角砲が設置されました。」という文を翻訳する時、「高角砲」という単語を和英辞書でひくと
high-angle gunとanti-aircraft gunが出て来ました。
詳しい人ではないと、今回の翻訳ではどちらが適切な語なのか分かりません。
そこでgoogle画像検索!
high-angle gunで検索すると結果はこんな感じ⇩
思っていたのと違う・・・手で持つ銃が多い。
anti-aircraft gunで画像検索すると結果はこんな感じ⇩
そうそう!これこれ!
という感じで見た目で確認できるgoogle画像検索、おすすめです。
④Grammarly
英文校正アプリGrammarly。これをダウンロードしておくと、パソコン上で打つ英文を全てチェックしてくれるので便利!
翻訳するにあたって気を付けたこと
✔日本語を直訳しないこと
日本語の説明をそのまま機械的に英語にするのではなく、日本語を読んで、自分の頭で解釈して、それをシンプルな英語に変える。
そして初めて訪れる外国人の立場になって分かりやすい説明にする。
年の表記もそのひとつ。例えば「昭和30年代」をそれをそのまま英語にしては年号になじみのない外国人にはわからないので、西暦に変えました。
✔口語っぽい表現は避ける
例えば、理由を述べる時にbecauseを使うと口語っぽい印象になるので、due toなど硬い印象の語を使う。
✔代名詞は避ける
一般の人々を表す抽象的なtheyなどは曖昧なので使わないようにする。
× They built Kure Naval Arsenal ~.
〇 Kure Naval Arsenal was built ~.
それでは実際の翻訳を見てみましょう。
翻訳した看板は6つあるので、今回は1つだけ。
アレイからすこじまという場所の看板です。
みなさんだったらどう翻訳しますか?
日本語
アレイからすこじま(旧呉海軍工廠本部前護岸及び関連施設)
「アレイからすこじま」という名称は,路地を意味する英語「アレイ」に、大正時代に海軍工廠拡張工事で消失した「烏小島」を足したものです。
戦前ここは呉海軍工廠本部前の護岸部で、山側に向かって多くのレンガ建造物が建ち並び、立派な石積みの岸壁からは大きなクレーンや軍艦が見えました。
呉鎮守府開庁翌年の明治23(1890)年に、東京の海軍造兵廠に代わる呉の兵器製造所が計画され、日清戦争後に工事が本格化、後に呉海軍工廠造兵部へと発展しました。
日露戦争後も呉海軍工廠は拡大を続け、昭和初期までには背後の丘に工員教育施設(海軍技手養成所)も建てられました。
しかし、太平洋戦争末期(昭和20(1945)年6月)の空襲により、工廠本部地区は壊滅しました。
現在、道路向かいに残る明治30年代に建てられたレンガ倉庫は、昭和20年の空襲で破壊された部分を取り去って昭和30(1955)年頃に整備されたものです。
これを英語にする・・・
最初見たときは正直「どうしよう・・・」と途方にくれました
翻訳の仕事は初めてだったし、私の翻訳した英語が看板になるなんて、責任重大・・・!!!そしてタイトルから漢字がいっぱい!!!!!!
とりあえず、ひとつひとつ調べながら頑張って翻訳した英文がこちら⇩
翻訳した英語
使えそうな表現に下線を引いています!
Self-Defense Port Alley Karasukojima
アレイからすこじま
(former headquarters of the Kure Naval Arsenal and related facilities)
(旧呉海軍工廠本部前護岸及び関連施設)
"Self-Defense Port Alley Karasukojima" takes its name from the English word "alley" and a small island called "Karasukojima", which vanished in the Taisho period due to the extension work of a naval arsenal in the area.
「アレイからすこじま」という名称は,路地を意味する英語「アレイ」に、大正時代に海軍工廠拡張工事で消失した「烏小島」を足したものです。
In prewar days, this area used to be a seawall of the headquarters of the Kure Naval Arsenal. There was a row of brick buildings facing the mountains and a huge crane and warships could be seen from the quay made of big stones.
戦前ここは呉海軍工廠本部前の護岸部で、山側に向かって多くのレンガ建造物が建ち並び、立派な石積みの岸壁からは大きなクレーンや軍艦が見えました。
※facingは分詞構文です。
The plan to build an arsenal in Kure, which would replace the one in Tokyo, was formed in 1890 and went into effect after the Sino-Japanese War and grew into the Kure Naval Arsenal.
呉鎮守府開庁翌年の明治23(1890)年に、東京の海軍造兵廠に代わる呉の兵器製造所が計画され、日清戦争後に工事が本格化、後に呉海軍工廠造兵部へと発展しました。
※ ,which関係代名詞の非制限用法はやはり使えると便利!
The Kure Naval Arsenal kept expanding after the Russo-Japanese War, and by the early Meiji period, educational institutions for training naval engineers were built on a hill behind the arsenal.
日露戦争後も呉海軍工廠は拡大を続け、昭和初期までには背後の丘に工員教育施設(海軍技手養成所)も建てられました。
However, the Kure Naval Arsenal was destroyed by the air raid in June 1945.
しかし、太平洋戦争末期(昭和20(1945)年6月)の空襲により、工廠本部地区は壊滅しました。
The red brick warehouses built during the third decade of the Meiji period (1897-1907), which you can see across the road, were restored in 1955, removing the parts damaged by the air raid in 1945.
現在、道路向かいに残る明治30年代に建てられたレンガ倉庫は、昭和20年の空襲で破壊された部分を取り去って昭和30(1955)年頃に整備されたものです。
※また出た! ,which関係代名詞の非制限用法!
※removingは分詞構文です。
そしてアメリカ人の大親友Ericにメールして添削してもらったのがこちら⇩
添削後
※赤字が訂正前、青字が訂正後
Self-Defense Port Alley Karasukojima
アレイからすこじま
(former headquarters of the Kure Naval Arsenal and related facilities)
(旧呉海軍工廠本部前護岸及び関連施設)
"Self-Defense Port Alley Karasukojima" takes its name from the English word "alley" and a small island called "Karasukojima", which vanished in the Taisho period due to the extension work
「アレイからすこじま」という名称は,路地を意味する英語「アレイ」に、大正時代に海軍工廠拡張工事で消失した「烏小島」を足したものです。
訂正① "Karasukojima", whichの,を消す
訂正② the extension work of a naval arsenalをconstruction to expandに変える
In prewar days, this area used to
戦前ここは呉海軍工廠本部前の護岸部で、山側に向かって多くのレンガ建造物が建ち並び、立派な石積みの岸壁からは大きなクレーンや軍艦が見えました。
訂正① this area used to beをthis area used to serve asに変える(確かにserve asの方がかっこいい!)
訂正② a seawall of the headquartersをa seawall for the headquartersに変える(私も含め、日本人がやりがちなofの多用…反省…)
訂正③bigをlargeに変える。(確かにbigは口語的な響き)
The plan to build an arsenal in Kure, which would replace the one in Tokyo, was formed in 1890 and went into effect after the Sino-Japanese War and grew into the Kure Naval Arsenal.
呉鎮守府開庁翌年の明治23(1890)年に、東京の海軍造兵廠に代わる呉の兵器製造所が計画され、日清戦争後に工事が本格化、後に呉海軍工廠造兵部へと発展しました。
The Kure Naval Arsenal kept expanding after the Russo-Japanese War, and by the early Meiji period, educational institutions for training naval engineers were built on a hill behind the arsenal.
日露戦争後も呉海軍工廠は拡大を続け、昭和初期までには背後の丘に工員教育施設(海軍技手養成所)も建てられました。
However, the Kure Naval Arsenal was destroyed by the air raid in June 1945.
しかし、太平洋戦争末期(昭和20(1945)年6月)の空襲により、工廠本部地区は壊滅しました。
The red brick warehouses built during the third decade of the Meiji period (1897-1907), which you can see across the road, were restored in 1955, removing the parts damaged by the air raid in 1945.
現在、道路向かいに残る明治30年代に建てられたレンガ倉庫は、昭和20年の空襲で破壊された部分を取り去って昭和30(1955)年頃に整備されたものです。
完成版
Self-Defense Port Alley Karasukojima
(former headquarters of the Kure Naval Arsenal and related facilities)
"Self-Defense Port Alley Karasukojima" takes its name from the English word "alley" and a small island called "Karasukojima" which vanished in the Taisho period due to construction to expand a naval arsenal in the area.
In prewar days, this area used to serve as a seawall for the headquarters of the Kure Naval Arsenal. There was a row of brick buildings facing the mountains, and a huge crane and warships could be seen from the quay made of large stones.
The plan to build an arsenal in Kure, which would replace the one in Tokyo, was formed in 1890, the year after the Kure Naval Station started operations. It went into effect after the Sino–Japanese War and developed into the Kure Naval Arsenal.
The Kure Naval Arsenal kept expanding after the Russo–Japanese War, and by the early Meiji period, educational institutions for training naval engineers were built on a hill behind the arsenal.
However, the arsenal was destroyed by the air raid in June 1945, in the closing days of the Pacific War.
The red brick warehouses built during the third decade of the Meiji period (1897-1906), which you can see across the road, were restored in 1955, removing the parts damaged by the air raid in 1945.
そして出来上がった実際の看板がこちら!!!♡
私はまだ実物は見ていませんが、母が張り切って見に行った時に写真を送ってくれました!